何もないただある存在

現れの世界で様々な苦しみを経験した人の多くは、非二元を学んでそれを体感し(悟っ)たら、苦しみを味わうことのない人になると思っているかもしれないけれど、その考えもまた現れとしての思考なのでいくら本を読んでも、坐禅や瞑想その他の難行苦行をしても、人もまた現れにすぎないのでそんな人にはならない。



要は、たとえどんな悲惨な出来事や人生であってもそれら現れと共(同時)にその本質である非二元(愛・真我・神・悟り等々様々にネーミングされているが実際はただ穏やかな静寂である)は常に存在しているので、もしも目標を達成したいとか成功して他人から尊敬されたい等々他の人とは違う特別な人になることを願うのではなく、他と区別も差もない非二元方向で生きていきたいと願うなら、どんな現れの時も例外なく本質(非二元・愛等々)を選択するという覚悟が必要であろう。



覚悟をするとどうなるかと言うと、自分が巻き込まれやすい嫌な現れがやって来た時、思考の癖としてすぐにその現れに巻き込まれはするが、どこかの時点で「またこのパターンに巻き込まれている」と気付いたら、「現れでなく愛(本質)を選んだのだから方向が違うよね」と思考に向かって言い聞かせることができる。



それだけで本質である静寂に戻ることができればいいが、そうではなく次から次へと金魚の糞のごときマイナスの思考に巻き込まれていくかもしれない。しかしそういう時もまたそれに気付くことができれば、深呼吸したり瞑想したり非二元の本を読んだりして自分が愛(本質)を選んだことを思い出すように仕向ければ、問題であった現れはいつかは消えてまた別の現れに変わっていることに気付くだろう。



いついかなる時でも現れはあるので、その現れと共に本質である愛(静寂)が存在していることを忘れないことこそが大事なポイントである。



熟睡している時以外生きている限り現れがなくなることはない。眠っていても夢という現れを見る。



現れがなくなることを願ったり目標にするのではなく(それもまた現れである)、起こってくる現れは常に本質(非二元・愛・静寂)と共にあるのだと気付くことができればいいのだ。



苦悩のない悟った人になるのではなく、苦悩その他の現れと共に苦悩もなにもない静寂(愛・非二元)が存在していると常に実践・確認している人になるのがいい。



苦悩が起こっても同時にそれはない(救われている・愛されている)と気付くことができる人、と言うより人も現れなので、何もないただある存在になるのがいい。