「私は悟った」という思考の罠について
昨日書いた「私はまだまだだめだ」という思考とは逆の「私は悟ったぞ」という思考の罠について書いてみようと思います。
「私はまだまだだめだ」という思考と「私は悟った」という思考は、ほとんど同じ気づきをマイナスにとらえるのとプラスにとらえるのとの違いだけで全く差がないのですが、夢としてはかなりな違いが出てきます。
「私はまだまだだめだ」の人は、気づけているしいいせんいっているのに、いつまでたってもだめだだめだと否定的にとらえてばかりいて「このままでいい」とは思えないのに対し、
「私は悟ったぞ」の人は自分を悟った人間だと特別視して、カリスマ性を身に着けて宗教集団なんか作っていい意味でも悪い意味でもリーダーシップを発揮したりすることがあります。
例えばO真理教のASさんとか、自分を仏陀の生まれ変わりだと言っているOさんとか…他にもたくさんいるはずです。
全て夢であり特別な人なんか誰もいないどころか個人さえいないのですから、悟りを完全に勘違いして悟りから遠ざかっていっているにすぎません。
そういう意味で「私はまだまだだめだ」という思考と「自分は悟ったぞ」という思考は違うように見えて実は思考の罠にはまって悟り(真の私・全体性・青空意識)から遠ざかっている点は同じなのです。
悟った人などいません。
悟りとは真の私であり、全体性であり、青空意識であり、何もないのです。
もちろん仏陀も私たちと同様に真の私が見る夢なので、私たちも仏陀も本質は同じ何もない全体性なのです。
そういう意味ではみんな仏陀なのです。
あれっ…確かこんなタイトルの本があったっけ…?
スピリチュアル会の大御所AさんとM和尚の共著の例のあの本のタイトルは確か「みんなが…」だったよね。
決してパクったわけではなく私たちの本質を深めていくとどうしてもここへ行きつく。
私たちの本質は一つ。
全体で一つの命。
愛。
そこから全ての夢が生まれてそこへと帰って行く。
全ての夢が生まれてくるそこは何もない。