2016-01-01から1年間の記事一覧

主体も客体もない。

スピリチュアル系の人がよく言う「…を手放す」という言葉がある。 その言葉を聞くと、 「いったい誰が手放すのだろうか?」という思考が湧いてくる。 手放す主体は、もちろん「…を手放す」と言っている本人なのだろうけれど、 何かを手放すことで、手放した…

真の私

こちら側にいて、あちら側を見ているだけで、ただあるだけで、何かあるようでその実何もない。 個人の私と錯覚するくらい近いけれど、個人の私はそれが見ている夢の存在であって、それではない。 それは個人の私の源であり本質である。 この世のありとあるも…

わからないから面白い。

今朝方見た夢の中で、何のつながりもなく唐突に、草原の場面から家の中の場面へ場面が変化した。 その夢をを見ているであろうと思われる存在(たぶん私?)がその場面を見て、 「連続したストーリーのように見えているけれど、こういう風に場面は変化して繋…

それはいったい何なのか?

じっとしていても動き回っていても思考は湧いてくる。 もちろん瞑想していても思考は湧いてくる。 眠っている時は夢として思考は湧いてくる。 はて…? いったいどこから思考はやって来るのか? 思考の源を観察しようとしても、全くわからない。 源がなくて思…

不確実さ不安定さを信じる。

非二元・真の私・悟り・青空意識等を探求している人のお手本はその道の先駆者になるので、どうしても先駆者の話を聞いたり本を読んだりして、その人と自分を比較することになる。 しかし本質的には自分も他人もいないので、先駆者の話や本は参考にこそなるけ…

言葉の力

何かの刺激に反応して感情が動くと、思考はすぐさま言葉を使ってそれに名前をつける。 悲しい・嬉しい・腹立たしい・感動的な等々様々な言葉を使って名前をつける。 すると不安定で形がなくただのもやもやでしかなかった感情が、形が整えられて存在を与えら…

生きていることはリアルじゃない。

幼い時から時々生きていることがリアルに感じられませんでした。 高校生くらいからは、そのことが人知れない悩みとなり、他の人たちのように物事に一生懸命取り組めない自分がおかしいのだと思うようになり、何かに一生懸命取り組もうとしましたが、ほとんど…

美味しいフルーツ

つい先日とある事件に巻き込まれた時のこと… それは言ってみれば降ってわいたような災難といったたぐいの出来事なのですが、私以外にも多くの方が関係しているので、具体的な内容は省かせていただきます。 「どうして私がこんな目にあわなければならないの?…

上善は水のごとし。

「上善は水のごとし。水は善く万物を利して争はず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る。」(書き下し文) これは「老子道徳教8章」の書き出しの部分です。 上質の善(本当にすばらしい行いや生き方)は、水のようです。 水は万物をうるおし利をあたえている…

とにかくリラックス

何かにフォーカスして思考に付いて行こうとする時、身体が硬くなり「私」という思い込みが始まる。 だから白隠禅師が真の私を水に喩えて個人の私(本当はいない)を氷に喩えたのは納得できる。 ゆるやかで全てにオープンであった真の私を閉ざして、自在であ…

衆生本来仏なり…

衆生本来仏なり水と氷のごとくにて水をはなれて氷なく衆生の外に仏なし衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ譬へば水の中に居て渇を叫ぶがごとくなり これは、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧白隠禅師が書いた「白隠禅師坐禅和讃」の最初の部分…

吾唯足知

「吾唯足知」とは「日々是好日」と同じく禅の教えで「吾唯足るを知る」と読み、京都の龍安寺のつくばい(手水鉢ちょうずばち)にこの四文字が口と言う文字を中心に一周する形で配置されている。 吾 知 唯 足 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%…

思い込みやジャッジを省いて目の前のものや思考を観察してみよう。

「何もないと言ったって目の前や頭の中やTVの映像に…あるじゃん。」 と思ってはいませんか? 確かに目の前に見える物、机や自分の手やその他諸々触ることができるものはあるような気がしますよね。 でも、それはずっと連続していつも存在し続けているのだ…

日々是好日

タイトルの「日々是好日」は「毎日いい日だよ」というような意味の禅の言葉です。 せんじ詰めれば「今が一番いい」「今がベスト」という意味ですが…。 禅が表現しているのも非二元や青空意識と同じで、自己の本質について表現しているのです。 自己の本質(…

いらない思考をお掃除しよう。

私たちは常に本質と共にあって本質から離れたことはないので、 すでにそうなので、 まずは単純に「すでに本質(青空)なんだ」と信じることが大事。 すでに本質(青空)だと信じて色々文句を言ってくる思考に気づき、これは本質ではないと少しずつ落としてい…

いわれない寂しさや虚しさはどこから来るのか?

私たち個人は、時にいわれない寂しさや虚しさに襲われることがある。 こんな時、私たちは誰かに会って話をしたり何かをして忙しくしてその思いを忘れようとする。 これもまた、何もない静寂(本質)を感じた時、何もない静寂など認めたくない思考が仕掛けて…

静寂だけがただある

静寂しかない 何もない 静寂だけがただある そこから全てが生まれそこへと帰っていく 命の原点 命そのもの ただある 静寂だけがただある

静寂そのもの

私たち自己の本質は何もない。 静寂そのもの。 静寂とは沈黙。 ということで、今日はこのへんで本質に帰りたいと思います。

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」 これは「奥の細道」に収録されているあまりにも有名な松尾芭蕉の句。 しかしこの句そのものには作者の存在が垣間見られない。 個人芭蕉が完全に消えている。 この句は何もない世界の静寂と蝉の声が賑やかな夢の世界が同時に…

「私は悟った」という思考の罠について

昨日書いた「私はまだまだだめだ」という思考とは逆の「私は悟ったぞ」という思考の罠について書いてみようと思います。 「私はまだまだだめだ」という思考と「私は悟った」という思考は、ほとんど同じ気づきをマイナスにとらえるのとプラスにとらえるのとの…

思考の罠

今朝伊東Dr.のもとに集う和サンガメンバーの一人とメールでやりとりしていて気づいたことを書いてみようと思います。 私たち人間は常に何かを探求しているものだが、こういう非二元や禅等を探求している個人が陥りやすい罠として、 「私はまだまだAさんの域…

何もしていない。

目の前の風景を含めて個人の私たちは真の私(全体性・青空意識・大いなる者…)が見る夢なので、個人の私は何もしていない。 どんなに自分が考えて計画的にやっているように思えても、「〜しよう」という思考や言動の全てがただ自然に起こっている(真の私が…

ただあるとは…?

ただあるとはどういうことなのか? ただあるあり方とはどういうありかたなのか? ただあるのは夢のあり方ではなくて、夢を見ている本質(青空意識・真我・全体性)のあり方である。 夢を見ている存在、気づいている存在のあり方である。 私たちの本質のあり…

あるのはただ目の前の今ここ、それしかない。

本質的には何もないんだけれど、夢としてはある。 あるのはただ目の前の今ここだけである。 視界に入る範囲しかない。 目をつぶっていたら、聞こえてくる音しかない。 宇宙もアメリカもイスラム国も5歳の自分も今ここにないものは、全て思考にすぎない。 し…

何もないけれど全てある。

昨日「何もない」で終わったその続きが書きたくなったので続きを書きます。 本質は何もないけれど、次から次へと起こっては消えていく夢には何でも全てある。 そして個人の私が夢を見る時、私と夢が同時に存在するように真の私と真の私が見る夢は同時に存在…

何もない…。

私たちはみんな真の私(全体性)が見ている夢。 真の私はただあるだけで何もないので、 真の私は全体しかないので、 何かがたくさんあるような、分かれてあるような夢を見たかったのだろうか…? けれど夢だから儚くてすぐに消えてしまう。 だから真の私は次…

「〜べき。」「〜ねばならない。」がなくなって自由になっていく。

青空意識・非二元・真の私・全体性等々様々な言い方をするが、全て同じものを指している。 言葉(思考)の少し前の世界・私という点を打つ前の世界。 言葉がないから枠組みがない。 枠組みがなくて自由と愛しかない。 だからこの世界に触れるようになると、…

今が一番完璧なのに…?

今が一番完璧で幸せで自由なのに、 思考は、これが足りないあれが足りない…あの時ああだったらこの時こうだったら…こうなったらいいのにああなったらいいのに… と文句を言ってばかりいる。 今を観ないで、過去や未来のことばかり考えている。 過去や未来はな…

名前をつけるとそれはスペシャルな存在となる。

言葉で名前を付けると、それはこの世で唯一の存在となる。 一人一人違う名前を付けられた私たち人間は、常に他と違うスペシャルな存在であろうとし続ける。 あれこれ他と比較して、この世で唯一の存在であろうとし続ける。 他の人よりも違っていようとし続け…

はじめに言葉ありき

「はじめに言葉ありき」とは聖書の文章だが、言葉が生まれたからストーリーが生まれた。 聖書に書かれた内容は全て言葉を使ったストーリー(作り話)である。 ストーリーとは二元の世界についての表現である。 真の私は言葉以前の世界である。 思考の少し前…